よくある記憶の魔ものぶりである。
顔はちゃんと覚えている。だが、どうして名前が出てこない。
「佐藤さんじゃない、山田さんでもない。木村さんかな。それとも小林さんかな」
と思い出せないままに、相手がドンドン近づいてくる。そして話しかける
「お久しぶりでございます。ご主人様は元気ですか」
と訊ねられては、こちらも黙っているわけにもいかない。
「有り難うございます。おかげさまで、宅は元気にしております」
問題はこの後である。よせばよいの、おまけの一言がつい出てしまう。
「お宅のご主人様はお元気ですか」
とたんに「主人は三年前になくなりました」と、きついお返しである。
這々の体でわが家に戻ってから、よく考えてみると
「やっぱり山田さんだった。そういえば、三年前の山田さんのご主人のお葬式に出席した。あの山田さんを忘れるなんて、私、ぼけたんだわ」と自分を責める。
しかし、大脳生理学では、忘れた側が悪いのか、忘れられた側が悪いのかという問題が残ってしまう。
ここに、「記憶は興味のあるところのみに存在する」という、生理学的定義がある。定義通りならば、相手が興味ある人でもなく、魅力ある人でもなかったからこそ、忘れたので、「あんたもっと魅力も興味あれば、忘れなかったのに」と、忘れられた側に落ち度があることにある。
どうして、このような不思議な落ち度が発生するのだろう。
理由は、脳内に人の顔を覚える、専用の神経細胞の塊りがあるからである。
ヒトが生まれた時代、すなわち脳が発達し始めたころに、もっとも重要なことは、敵と味方の顔の区別であった。
当時は、なにしろ食うか食われるかの時代である。敵ならば、すぐにも逃げるか、戦闘の準備が必要。仲間だったら、もっと近づいて、餌のかけらでも手に入れよう、となる。
ということは、顔を覚える行為こそ、身を守り、生き抜くためのる最大級の方法だったのである。ところがここに問題あり。当時のヒトには名前がなかった。となると、顔のついでに、名前まで覚える神経細胞の集まりは作られていなかった。
こうした脳内事情が現在まで続いて、「顔は覚えているが、名前がどうしても浮かばない」という現象が起きてしまう。
ところが顔を覚える、覚えられるは、商売上、きわめて重要な事柄となる。名前すら覚えてもらえないようでは、プレゼンも効果なし。金銭の授受になれば、尚更のダメサインが出てしまう。
また、覚える側も一苦労である。とくに選挙演説中などでは、「名前を覚える」こそ、勝利の秘訣となる。
かっての国軍の名参謀辻政信氏は、名前覚えの名人だったそうな。その特技で当選したともいわれている。
田中角栄氏も同様で、「いよー、○○君。お父さんは元気かな」と一発食らわす。この一発で、たいていの人は落城した
しかし残念ながら、脳内には、顔と名前を同時に覚える神経細胞の塊りがない。じゃ、どうするか。方法は、顔を覚える神経細胞の塊りをフル活用することである。
顔の特徴に名前をくっつけて覚える。この時、名前と体の特徴を一緒にして、覚えることは不可である。体の特徴を覚える専用の神経細胞節がないからである。
つまり、「おデブの○○さん」より、「大鼻の△△さん」とほうが覚えやすい
まずは、顔と名前を忘れられないように、十分な魅力を身に付けよう。また、忘れないように、顔記憶専用の神経細胞の塊りをフル活用しようではないか。
2006年12月03日
2006年11月30日
ストレス解消か、ストレス対抗かの話
現在はストレス社会。そして、ストレスを原因とする傷害に悩む人は非常に多い。
一方、医学の原則は「原因除去」。トゲが刺さって痛むならば、鎮痛剤より、まずトゲを抜こうという説である。まことに結構。だが待てよ。この大原則も、ストレス傷害には通用しにくい。
いくら上司がストレスの原因であっても、上司を消すわけに行かない。同様に、隣家のオヤジを殺すわけにも行かないだろう。大原則の「原因除去」が不可能なのである。
また、よく医師が口にする「ストレス解消」も、言葉明瞭意味不明で、実行は非常に困難である。ストレスの最大原因である上司が、真向かいにドデン。これでは、ストレス解消も無理だろう。
といって、ストレス嵐に身をさらすままでは、芸がない。ここで、発想の転換。無理の多い、ストレス解消を工夫するより、ストレスに強くなろうではないか。押し寄せるストレスを、ちぎっては投げちぎっては投げ、ことごとくはじき飛ばそうでなないか。
ストレスに痛めつられた脳内の状態は、「脳内騒然たり」と考えていただきたい。脳内には、知性・理性の前頭葉、記憶の海馬、やる気の側坐核、好き嫌いの扁桃体、ホルモンや自律神経の総本山である視床下部など。一家言をもつ名士たちが勢揃い。
この名士たちが統一的に仕事をすれば、万事OK。ストレス源である上司の存在さえかすんでしまう。でも、何かの拍子に統一の枠がはずれて、群雄割拠となれば、「脳内騒然たり」。ストレス戦争に大敗する。
ストレスに強くなる方法は、まず脳内の名士たちの足並みを揃えさせることである。そのためには、なにより脳内時計を活用し、生活リズムを整えること。もともとヒトは、正しいリズムが大好き。だからこそ、十年一日のごとき生活を好む。また、例年のごとく、お花見に打ち興ずる。
では早々に、リズム再調整による、ストレス抵抗力強化訓練の開始である。筆頭は、定刻起床の厳守。前夜の入眠が夜明け近くであっても定刻起床。定刻起床は1日の出発点。出発点がはっきりすれば、脳内の名士たちも足並み揃えて用意ドン。
また脳内時計を陰から支えるものは、規則正しい三度の食事も重要である。とくに朝食は出発点をより明確にし、昼食は、狂い始めた脳内時計を再調整する働きをもつ。
かくして、今日一日も無事終了。といっても、ストレス強化訓練は、まだ終わっていない。帰宅途中でのちょっと一杯。これはストレス解消の一助となるから、黙認しよう。でも、許されないのは、仕上げのラーメンの一杯である。
ラーメンは、予想以上に脂っこいし、消化にも手間がかかる。胃袋を初めとする、消化器は、本来の休息時間の夜になっても、作業続行。こうなると、脳内時計は、「ああ、、夜だんだ。それとも、朝だったのか、昼だったのか」と誤解して、狂い始める。
脳内時計が狂うと、時計のねじ巻き役であるメラトニンの分泌が狂ってくる。すると親戚筋であるセロトニンの分泌も、ついで狂ってしまう。
セロトニンの異常分泌は、ストレス抵抗力強化にとって、致命的なダメージとなる。セロトニンは脳というオーケストラの名指揮者。名指揮者があってこそ、脳内名士たちの足並みも揃う。そしてストレスに強くなる。
定刻起床、朝食と昼食の重要性、夜食の大食い厳禁。たったこれだけで、明日からストレス退治の名人。是非是非、トライしていただきたい。
一方、医学の原則は「原因除去」。トゲが刺さって痛むならば、鎮痛剤より、まずトゲを抜こうという説である。まことに結構。だが待てよ。この大原則も、ストレス傷害には通用しにくい。
いくら上司がストレスの原因であっても、上司を消すわけに行かない。同様に、隣家のオヤジを殺すわけにも行かないだろう。大原則の「原因除去」が不可能なのである。
また、よく医師が口にする「ストレス解消」も、言葉明瞭意味不明で、実行は非常に困難である。ストレスの最大原因である上司が、真向かいにドデン。これでは、ストレス解消も無理だろう。
といって、ストレス嵐に身をさらすままでは、芸がない。ここで、発想の転換。無理の多い、ストレス解消を工夫するより、ストレスに強くなろうではないか。押し寄せるストレスを、ちぎっては投げちぎっては投げ、ことごとくはじき飛ばそうでなないか。
ストレスに痛めつられた脳内の状態は、「脳内騒然たり」と考えていただきたい。脳内には、知性・理性の前頭葉、記憶の海馬、やる気の側坐核、好き嫌いの扁桃体、ホルモンや自律神経の総本山である視床下部など。一家言をもつ名士たちが勢揃い。
この名士たちが統一的に仕事をすれば、万事OK。ストレス源である上司の存在さえかすんでしまう。でも、何かの拍子に統一の枠がはずれて、群雄割拠となれば、「脳内騒然たり」。ストレス戦争に大敗する。
ストレスに強くなる方法は、まず脳内の名士たちの足並みを揃えさせることである。そのためには、なにより脳内時計を活用し、生活リズムを整えること。もともとヒトは、正しいリズムが大好き。だからこそ、十年一日のごとき生活を好む。また、例年のごとく、お花見に打ち興ずる。
では早々に、リズム再調整による、ストレス抵抗力強化訓練の開始である。筆頭は、定刻起床の厳守。前夜の入眠が夜明け近くであっても定刻起床。定刻起床は1日の出発点。出発点がはっきりすれば、脳内の名士たちも足並み揃えて用意ドン。
また脳内時計を陰から支えるものは、規則正しい三度の食事も重要である。とくに朝食は出発点をより明確にし、昼食は、狂い始めた脳内時計を再調整する働きをもつ。
かくして、今日一日も無事終了。といっても、ストレス強化訓練は、まだ終わっていない。帰宅途中でのちょっと一杯。これはストレス解消の一助となるから、黙認しよう。でも、許されないのは、仕上げのラーメンの一杯である。
ラーメンは、予想以上に脂っこいし、消化にも手間がかかる。胃袋を初めとする、消化器は、本来の休息時間の夜になっても、作業続行。こうなると、脳内時計は、「ああ、、夜だんだ。それとも、朝だったのか、昼だったのか」と誤解して、狂い始める。
脳内時計が狂うと、時計のねじ巻き役であるメラトニンの分泌が狂ってくる。すると親戚筋であるセロトニンの分泌も、ついで狂ってしまう。
セロトニンの異常分泌は、ストレス抵抗力強化にとって、致命的なダメージとなる。セロトニンは脳というオーケストラの名指揮者。名指揮者があってこそ、脳内名士たちの足並みも揃う。そしてストレスに強くなる。
定刻起床、朝食と昼食の重要性、夜食の大食い厳禁。たったこれだけで、明日からストレス退治の名人。是非是非、トライしていただきたい。
2006年11月29日
生活習慣病は生活習慣で治す
死の四重奏、「メタボリックシンドローム」が世に現れて以来、かなりの時間が経つ。しかし、いっこうに良い結果見えたりの反応が現れない。
その理由は、問題の太鼓腹にあるのかも知れない。メタボリックシンドロームの正面には、腹囲、つまり「太鼓腹」がデンと収まってしまる。太鼓腹はお相撲でも見慣れている。確かに恐怖心が湧きにくい。また、日本人は、太鼓腹に意外と寛容である。布袋さまの太鼓腹を見て、和む気持ちがなせる業だろうか。
専門家である医師でさえ、動脈硬化と腹囲の関係を重視するものは少ない。わが国でさえ17%、その他の主要27ヵ国にいたっては10%前後という、体たらくである。
といわれても、死の四重奏は、確実に忍び寄ってくる。メタボリックシンドローム退治の二本柱は、減量と運動である。両者のどちらが欠けても、効果は上がらない。
「では減量と運動を開始!!」この言葉を耳にしただけで後ずさり。問題はここにある。良いと分かっていても、実行はイヤ。知識としては知っていたいが、汗をかいてまでの実行継続には、二の足を踏む。曰く、何にもしないで健康になれる方法はないものか。
メタボリックシンドローム退治の二本柱である減量と運動を検証してみよう。
まず減量。案に相違して、食べ物の話は一切ストップ。お馴染みの脂肪何グラム、糖質何グラムなどのメニューも、過酷で実行も継続も困難なためにカット・オフ。その代わり、よく噛むこと。
よく噛み咀嚼回数を増やすためには、一食一品堅めの食品を用意しよう。咀嚼回数さえ増えれば、早期満腹も実現するし、何より脂肪燃焼のためのアドレナリンの分泌が促進される。
さらに、もう一工夫。毎日の体重測定が登場する。不思議なことに、毎日体重を測定するだけで、減量効果が現れる。心理的要素か。それとも、増えたり減ったりの興味心か。多くの研究所での調査結果は、いずれも減量効果ありと判定されている。
運動法も、ハードでないことが大原則。早稲田大のスポーツ科学学術院の報告では、ハードな運動は、かえって最大脂肪燃焼量を減らしてしまうという。
最大脂肪燃焼量が減っては、それこそ元も子もない。そこで、こんな運動法をトライしたい。まず立つこと。揺れる電車の中で、何も掴まらずに立てみる。意外に大きな運動量になる。
さらに、立つことは次の行動への準備態勢。すなわち、次なる動くことにつながる。こうしたつながりが、家庭内の小動きを増やし、全運動量の増加につながってゆく。
生活習慣は決してハードなものでない。ハードでないからこそ、何の苦もなく、毎日積み重なってゆく。苦のないことが災いして、「負」の側に傾いてゆく。
「死の四重奏」とは、生活習慣の積み重ねの方向が、残念ながら「負」の側に傾いたための結果である。
「死の四重奏」と正面切っての決戦となれば、それなりの強力かつ理想の手段が必要となる。強力も理想も結構。だが、強力や理想に近づくほど、ハードルは高くなる
そして、実行と継続が難しくなる。実行と継続が困難となって、中断となれば、理想も画餅となってしまう。
さらに恐ろしいことは、中断の結果、いつしか「負」の生活習慣に負けて、「正」の生活習慣は消えてゆく。そして残ったものは、「死の四重奏」。
ならばちょっぴり、生活習慣を「正」の方向に路線変更してみよう。そして、毎日の積み重ね。積み重ね効果の大きさは、「負」の生活習慣で証明済みである。「正」のそれが積み重なれば、やがては、「死の四重奏」を打ち砕く、最強の武器となる。
もともとメタボリックシンドローム対策の基本は、「急がず、慌てず、ユックリと」である。「現在の腹囲、または体重の4%を、3~6ヶ月かけて、ユックリと減らせばよろしい」というのが多くの専門家のご意見である。
「急がず、慌てず、ユックリと」こそ、私の提案した、「メタボリックシンドローム対策四本柱」とピッタリと一致する。四本柱の内容とは よく噛むこと、毎日の体重測定すること、立つこと、家庭内の小動きを増やすこと、である。そして、この四本柱こそ、生活習慣である。
生活習慣から生まれた疾患は生活習慣で治す。毎日のラクな「正」の生活習慣で、メタボリックシンドロームに、強力なとどめを刺そうではないか。
その理由は、問題の太鼓腹にあるのかも知れない。メタボリックシンドロームの正面には、腹囲、つまり「太鼓腹」がデンと収まってしまる。太鼓腹はお相撲でも見慣れている。確かに恐怖心が湧きにくい。また、日本人は、太鼓腹に意外と寛容である。布袋さまの太鼓腹を見て、和む気持ちがなせる業だろうか。
専門家である医師でさえ、動脈硬化と腹囲の関係を重視するものは少ない。わが国でさえ17%、その他の主要27ヵ国にいたっては10%前後という、体たらくである。
といわれても、死の四重奏は、確実に忍び寄ってくる。メタボリックシンドローム退治の二本柱は、減量と運動である。両者のどちらが欠けても、効果は上がらない。
「では減量と運動を開始!!」この言葉を耳にしただけで後ずさり。問題はここにある。良いと分かっていても、実行はイヤ。知識としては知っていたいが、汗をかいてまでの実行継続には、二の足を踏む。曰く、何にもしないで健康になれる方法はないものか。
メタボリックシンドローム退治の二本柱である減量と運動を検証してみよう。
まず減量。案に相違して、食べ物の話は一切ストップ。お馴染みの脂肪何グラム、糖質何グラムなどのメニューも、過酷で実行も継続も困難なためにカット・オフ。その代わり、よく噛むこと。
よく噛み咀嚼回数を増やすためには、一食一品堅めの食品を用意しよう。咀嚼回数さえ増えれば、早期満腹も実現するし、何より脂肪燃焼のためのアドレナリンの分泌が促進される。
さらに、もう一工夫。毎日の体重測定が登場する。不思議なことに、毎日体重を測定するだけで、減量効果が現れる。心理的要素か。それとも、増えたり減ったりの興味心か。多くの研究所での調査結果は、いずれも減量効果ありと判定されている。
運動法も、ハードでないことが大原則。早稲田大のスポーツ科学学術院の報告では、ハードな運動は、かえって最大脂肪燃焼量を減らしてしまうという。
最大脂肪燃焼量が減っては、それこそ元も子もない。そこで、こんな運動法をトライしたい。まず立つこと。揺れる電車の中で、何も掴まらずに立てみる。意外に大きな運動量になる。
さらに、立つことは次の行動への準備態勢。すなわち、次なる動くことにつながる。こうしたつながりが、家庭内の小動きを増やし、全運動量の増加につながってゆく。
生活習慣は決してハードなものでない。ハードでないからこそ、何の苦もなく、毎日積み重なってゆく。苦のないことが災いして、「負」の側に傾いてゆく。
「死の四重奏」とは、生活習慣の積み重ねの方向が、残念ながら「負」の側に傾いたための結果である。
「死の四重奏」と正面切っての決戦となれば、それなりの強力かつ理想の手段が必要となる。強力も理想も結構。だが、強力や理想に近づくほど、ハードルは高くなる
そして、実行と継続が難しくなる。実行と継続が困難となって、中断となれば、理想も画餅となってしまう。
さらに恐ろしいことは、中断の結果、いつしか「負」の生活習慣に負けて、「正」の生活習慣は消えてゆく。そして残ったものは、「死の四重奏」。
ならばちょっぴり、生活習慣を「正」の方向に路線変更してみよう。そして、毎日の積み重ね。積み重ね効果の大きさは、「負」の生活習慣で証明済みである。「正」のそれが積み重なれば、やがては、「死の四重奏」を打ち砕く、最強の武器となる。
もともとメタボリックシンドローム対策の基本は、「急がず、慌てず、ユックリと」である。「現在の腹囲、または体重の4%を、3~6ヶ月かけて、ユックリと減らせばよろしい」というのが多くの専門家のご意見である。
「急がず、慌てず、ユックリと」こそ、私の提案した、「メタボリックシンドローム対策四本柱」とピッタリと一致する。四本柱の内容とは よく噛むこと、毎日の体重測定すること、立つこと、家庭内の小動きを増やすこと、である。そして、この四本柱こそ、生活習慣である。
生活習慣から生まれた疾患は生活習慣で治す。毎日のラクな「正」の生活習慣で、メタボリックシンドロームに、強力なとどめを刺そうではないか。
2006年11月26日
「多情多恨」のお話し
明治の文豪尾崎紅葉は、明治29年に小説「多情多恨」を発表している。それにしても、「多情多恨」とは言い得て妙な言葉である。
過日、テレビの身の上相談で、こんな光景があった。
相談するのは、複数の男性との外泊を繰り返す、不行跡娘を心配する母。答えるのは、かってグループシンガーであったA氏。
そしてA氏の解答。「セックスは個人の自由。だから、不行跡に非ず。たとえ自分の娘が同じことをしても、私は許すだろう」。自称進歩的な文化人のA氏は、胸を張って解答したものである。
だが、待てよ。たしかにセックスは個人の自由である。しかし、あまり自由を振り回しすぎると、とんでもないお灸をすれられることがある。
女性にとって恐ろしい子宮頚部癌は、ギリシャ時代、その名も麗しく、「ヴィーナス病」と呼ばれていた。
ところが実態は、麗しき名前に背く重病である。そして、問題のヴィーナス病は当時すでに、言葉は古いが、娼婦や放蕩亭主を持つ妻に発生しやすく、性行為と浅からぬ関係をもつ「もの」として知られていた。同時に、セックス経験のない修道女や尼さんには、発生しにくいともされていたのである。
時代が過ぎ時が流れ、ギリシャ時代から約2000年後の1983年。子宮頸部癌の90%から、ヒトパピローマウイルスというウイルスが検出された。つまり、子宮頚部癌は、一種のウイルス感染症だったわけである。
そして、ヴィーナス病は、性病と同じように、今となっては懐かしい、特飲街関係レディたち中心に、比較的狭い範囲内のみに広がっている考えられていた。
ところがところが最近は、自称進歩的な文化人のおすすめ(?)もあっての、いわゆる性の自由化である。
いまや、複数のセックスパートナーは当然、不倫だってことの成り行き次第。若き女子中高学生の間でも、援助交際という名の、まごうことなき売春行為が横行中である。
初体験の低年化と複数相手との性交渉は、ヒトパピローマウイルスを仕込むには十分すぎる条件ではないか。女子高校生らの自己採取標本から、ヒトパピローマウイルスの高い陽性率を見たとの報告も、その辺の事情をはっきりと証明している。
初体験の低年化と性交渉相手の複数化、そして子宮頚部癌の多発。げに恐ろしきは、多情多恨の条理なり。
現代感覚では、セックスはスポーツのようなものなのかもしれない。しかし、今日の快楽が明日の悲しみにならぬよう、ここらでセックスの自由化を見直すべきだろう。
自称進歩的文化人を自称するA氏も、わがムスメが子宮頚部眼で苦しむ姿を見たら、はたして、「セックスは個人の自由。不行跡に非ず」の言葉をいかに受け止めるだろうか。同時に、「多情多恨」なる言葉の意味を、もっとしっかりと噛みしめてもらいたい。
過日、テレビの身の上相談で、こんな光景があった。
相談するのは、複数の男性との外泊を繰り返す、不行跡娘を心配する母。答えるのは、かってグループシンガーであったA氏。
そしてA氏の解答。「セックスは個人の自由。だから、不行跡に非ず。たとえ自分の娘が同じことをしても、私は許すだろう」。自称進歩的な文化人のA氏は、胸を張って解答したものである。
だが、待てよ。たしかにセックスは個人の自由である。しかし、あまり自由を振り回しすぎると、とんでもないお灸をすれられることがある。
女性にとって恐ろしい子宮頚部癌は、ギリシャ時代、その名も麗しく、「ヴィーナス病」と呼ばれていた。
ところが実態は、麗しき名前に背く重病である。そして、問題のヴィーナス病は当時すでに、言葉は古いが、娼婦や放蕩亭主を持つ妻に発生しやすく、性行為と浅からぬ関係をもつ「もの」として知られていた。同時に、セックス経験のない修道女や尼さんには、発生しにくいともされていたのである。
時代が過ぎ時が流れ、ギリシャ時代から約2000年後の1983年。子宮頸部癌の90%から、ヒトパピローマウイルスというウイルスが検出された。つまり、子宮頚部癌は、一種のウイルス感染症だったわけである。
そして、ヴィーナス病は、性病と同じように、今となっては懐かしい、特飲街関係レディたち中心に、比較的狭い範囲内のみに広がっている考えられていた。
ところがところが最近は、自称進歩的な文化人のおすすめ(?)もあっての、いわゆる性の自由化である。
いまや、複数のセックスパートナーは当然、不倫だってことの成り行き次第。若き女子中高学生の間でも、援助交際という名の、まごうことなき売春行為が横行中である。
初体験の低年化と複数相手との性交渉は、ヒトパピローマウイルスを仕込むには十分すぎる条件ではないか。女子高校生らの自己採取標本から、ヒトパピローマウイルスの高い陽性率を見たとの報告も、その辺の事情をはっきりと証明している。
初体験の低年化と性交渉相手の複数化、そして子宮頚部癌の多発。げに恐ろしきは、多情多恨の条理なり。
現代感覚では、セックスはスポーツのようなものなのかもしれない。しかし、今日の快楽が明日の悲しみにならぬよう、ここらでセックスの自由化を見直すべきだろう。
自称進歩的文化人を自称するA氏も、わがムスメが子宮頚部眼で苦しむ姿を見たら、はたして、「セックスは個人の自由。不行跡に非ず」の言葉をいかに受け止めるだろうか。同時に、「多情多恨」なる言葉の意味を、もっとしっかりと噛みしめてもらいたい。
2006年11月25日
欲と脳
脳はよくコンピュータに例えられる。当然である。コンピュータとは、脳の仕組みを真似して作られたものだから。
さて、そのコンピュータ。家庭のコンピュータでも、会社のコンピュータでも、学校・役所などの、どのコンピューターにもスィッチがある。スイッチがONされて、初めてコンピュータが立ち上がり仕事を始める。
ならば、脳というコンピュータのスィッチは、どこにあるのか。
それが「欲」である。あれが欲しい、これが欲しい、こうなるといいな、ああなるといいなという欲望が、脳を刺激して、ドンドンと大きく成長してゆく。
しかも脳内での「欲」の神経節は視床下部。視床下部は本能や自律神経、さらには各種のホルモンの総本山である。
ひとたび「欲」の感情が頭をもたげれば、視床下部はすぐさま活動開始。そして、本能や自律神経、さらには各種のホルモンが一斉に働き出して、視床下部は大活性化する
視床下部が大活性化しては、脳全体してもぐずぐずしていられない。脳の各部に指令が飛んでゆく。かくして、脳は成長するのである。というわけで、「欲」という感情は、脳にとって非常に大切なキーワードとなる。
困ったことに、わが国では、欲張りは嫌われ者。欲の心をグッと押さえての、素知らぬ顔こそ美徳とされている。これは大きな誤りである。欲張りこそ美徳である。今後は、胸を張って、「私は欲張りだ」と高言していただきたい。
欲張りがどうして気に入らなければ、「意欲」と理解されたら、いかがだろう。
処は東欧ブルガリヤ。当地の老人の意欲はものすごい。80才になった老人は、「オレは、80才の2倍までは生きるぞ」と張り切る。100才を越えた老人も、「嫁をもらいたいが、22,3才の良い娘はいないだろうか」と、真剣に探し回る。
一方、世界NO1の長寿国ニポンの高齢者を見ると、意欲が全く希薄。「いつお向かいがきても構いません。待っているんです」と、いいながらの医者通い。
そんな見え透いたウソを言わずに、「もっと長生きをするぞ、もっと長生きしたい」とわめくほうが、ずっと正直で意欲的である。その「正直な意欲」が脳を刺激して、もっともっとの長寿につながるのである。
「欲」といっても幅が広い。金銭欲、名誉欲、性欲、食欲、知識欲など。だが「欲」であれば、何でも結構。「欲」という字が付いていれば、脳はイヤでも活性化する。
また、ヒト特有の「羞恥心」という感情も重要である。とくに女性では、この「羞恥心」の多寡が寿命まで伸ばす力となっている。
ある離島での健康調査では、服装が年より若い人は、血中のコレステロールが少ない。服装が年相応または年より老けている人は、血中のコレステロールが多かったと報告されている。
「こんな服装ではクラス会に出れないわ。たれよりも豪華で美しく!」。これも、 羞恥心の仲間の「見栄」という感情の働きである。
かって、「見栄は慎むべきもの」とされていた。しかし、その内容をじっくりと見てみると、イヤイヤ、どうして慎むべきもの処か、重要きわまりない脳の肥料である。
羞恥心や見栄の感情が、おしゃれ心に拍車をかける。かくして女性ホルモンの分泌は増加し、対コレステロール、対ストレスの能力が高まり、長寿というご褒美を手に入れているのである。
われわれは、毎日「周囲を囲まれての生活」をしている。ということは、周囲の確認は欠くべからざる行動となる。では、男性の確認能力はいかがであろう。男同士がすれ違った場合、ほとんど相手を意識しない。「おっさんが通る」はまだ良い方。中には「新聞紙がとんでゆく」程度の認識である。
だが、女性同士がすれ違うと事情は一変。相手の頭のてっぺんから足の先まで、視線が2,3回も往復する。そして、相手の持ち物調べ。「あのバッグはブランド物、でも靴はセール品ね。それにしても、ブラウスがお粗末だわ」と、瞬時にして値段まで調べ上げる。
そして、次には相手に打ち勝つ見栄合戦が始まる。
まさに見栄の塊。まさに確認能力の塊。だが、これだけの確認能力があれば、周囲の全てを把握して、何があっても直ちに適切な対処が可能。かくして女性の長寿と健康が全うされるのである。
動物界では、ほとんどのメスはオスより長命である。中でも、わが国の女性は、たくましく長生きである。もちろん女性の長寿には、ホルモン的な問題もあろう。遺伝因子の問題もからむだろう。だが、たくましく長生きの隠れた事実として、欲張り、羞恥心、見栄の存在を見逃すことは出来ない 。
さて、そのコンピュータ。家庭のコンピュータでも、会社のコンピュータでも、学校・役所などの、どのコンピューターにもスィッチがある。スイッチがONされて、初めてコンピュータが立ち上がり仕事を始める。
ならば、脳というコンピュータのスィッチは、どこにあるのか。
それが「欲」である。あれが欲しい、これが欲しい、こうなるといいな、ああなるといいなという欲望が、脳を刺激して、ドンドンと大きく成長してゆく。
しかも脳内での「欲」の神経節は視床下部。視床下部は本能や自律神経、さらには各種のホルモンの総本山である。
ひとたび「欲」の感情が頭をもたげれば、視床下部はすぐさま活動開始。そして、本能や自律神経、さらには各種のホルモンが一斉に働き出して、視床下部は大活性化する
視床下部が大活性化しては、脳全体してもぐずぐずしていられない。脳の各部に指令が飛んでゆく。かくして、脳は成長するのである。というわけで、「欲」という感情は、脳にとって非常に大切なキーワードとなる。
困ったことに、わが国では、欲張りは嫌われ者。欲の心をグッと押さえての、素知らぬ顔こそ美徳とされている。これは大きな誤りである。欲張りこそ美徳である。今後は、胸を張って、「私は欲張りだ」と高言していただきたい。
欲張りがどうして気に入らなければ、「意欲」と理解されたら、いかがだろう。
処は東欧ブルガリヤ。当地の老人の意欲はものすごい。80才になった老人は、「オレは、80才の2倍までは生きるぞ」と張り切る。100才を越えた老人も、「嫁をもらいたいが、22,3才の良い娘はいないだろうか」と、真剣に探し回る。
一方、世界NO1の長寿国ニポンの高齢者を見ると、意欲が全く希薄。「いつお向かいがきても構いません。待っているんです」と、いいながらの医者通い。
そんな見え透いたウソを言わずに、「もっと長生きをするぞ、もっと長生きしたい」とわめくほうが、ずっと正直で意欲的である。その「正直な意欲」が脳を刺激して、もっともっとの長寿につながるのである。
「欲」といっても幅が広い。金銭欲、名誉欲、性欲、食欲、知識欲など。だが「欲」であれば、何でも結構。「欲」という字が付いていれば、脳はイヤでも活性化する。
また、ヒト特有の「羞恥心」という感情も重要である。とくに女性では、この「羞恥心」の多寡が寿命まで伸ばす力となっている。
ある離島での健康調査では、服装が年より若い人は、血中のコレステロールが少ない。服装が年相応または年より老けている人は、血中のコレステロールが多かったと報告されている。
「こんな服装ではクラス会に出れないわ。たれよりも豪華で美しく!」。これも、 羞恥心の仲間の「見栄」という感情の働きである。
かって、「見栄は慎むべきもの」とされていた。しかし、その内容をじっくりと見てみると、イヤイヤ、どうして慎むべきもの処か、重要きわまりない脳の肥料である。
羞恥心や見栄の感情が、おしゃれ心に拍車をかける。かくして女性ホルモンの分泌は増加し、対コレステロール、対ストレスの能力が高まり、長寿というご褒美を手に入れているのである。
われわれは、毎日「周囲を囲まれての生活」をしている。ということは、周囲の確認は欠くべからざる行動となる。では、男性の確認能力はいかがであろう。男同士がすれ違った場合、ほとんど相手を意識しない。「おっさんが通る」はまだ良い方。中には「新聞紙がとんでゆく」程度の認識である。
だが、女性同士がすれ違うと事情は一変。相手の頭のてっぺんから足の先まで、視線が2,3回も往復する。そして、相手の持ち物調べ。「あのバッグはブランド物、でも靴はセール品ね。それにしても、ブラウスがお粗末だわ」と、瞬時にして値段まで調べ上げる。
そして、次には相手に打ち勝つ見栄合戦が始まる。
まさに見栄の塊。まさに確認能力の塊。だが、これだけの確認能力があれば、周囲の全てを把握して、何があっても直ちに適切な対処が可能。かくして女性の長寿と健康が全うされるのである。
動物界では、ほとんどのメスはオスより長命である。中でも、わが国の女性は、たくましく長生きである。もちろん女性の長寿には、ホルモン的な問題もあろう。遺伝因子の問題もからむだろう。だが、たくましく長生きの隠れた事実として、欲張り、羞恥心、見栄の存在を見逃すことは出来ない 。