2006年12月03日

顔は覚えているが、名前が出てこない

 よくある記憶の魔ものぶりである。
 顔はちゃんと覚えている。だが、どうして名前が出てこない。
「佐藤さんじゃない、山田さんでもない。木村さんかな。それとも小林さんかな」
と思い出せないままに、相手がドンドン近づいてくる。そして話しかける
「お久しぶりでございます。ご主人様は元気ですか」
と訊ねられては、こちらも黙っているわけにもいかない。
「有り難うございます。おかげさまで、宅は元気にしております」
 問題はこの後である。よせばよいの、おまけの一言がつい出てしまう。
「お宅のご主人様はお元気ですか」
とたんに「主人は三年前になくなりました」と、きついお返しである。
這々の体でわが家に戻ってから、よく考えてみると
「やっぱり山田さんだった。そういえば、三年前の山田さんのご主人のお葬式に出席した。あの山田さんを忘れるなんて、私、ぼけたんだわ」と自分を責める。
 しかし、大脳生理学では、忘れた側が悪いのか、忘れられた側が悪いのかという問題が残ってしまう。
 ここに、「記憶は興味のあるところのみに存在する」という、生理学的定義がある。定義通りならば、相手が興味ある人でもなく、魅力ある人でもなかったからこそ、忘れたので、「あんたもっと魅力も興味あれば、忘れなかったのに」と、忘れられた側に落ち度があることにある。
 どうして、このような不思議な落ち度が発生するのだろう。
 理由は、脳内に人の顔を覚える、専用の神経細胞の塊りがあるからである。
ヒトが生まれた時代、すなわち脳が発達し始めたころに、もっとも重要なことは、敵と味方の顔の区別であった。
 当時は、なにしろ食うか食われるかの時代である。敵ならば、すぐにも逃げるか、戦闘の準備が必要。仲間だったら、もっと近づいて、餌のかけらでも手に入れよう、となる。
ということは、顔を覚える行為こそ、身を守り、生き抜くためのる最大級の方法だったのである。ところがここに問題あり。当時のヒトには名前がなかった。となると、顔のついでに、名前まで覚える神経細胞の集まりは作られていなかった。
 こうした脳内事情が現在まで続いて、「顔は覚えているが、名前がどうしても浮かばない」という現象が起きてしまう。
 ところが顔を覚える、覚えられるは、商売上、きわめて重要な事柄となる。名前すら覚えてもらえないようでは、プレゼンも効果なし。金銭の授受になれば、尚更のダメサインが出てしまう。
 また、覚える側も一苦労である。とくに選挙演説中などでは、「名前を覚える」こそ、勝利の秘訣となる。
 かっての国軍の名参謀辻政信氏は、名前覚えの名人だったそうな。その特技で当選したともいわれている。
田中角栄氏も同様で、「いよー、○○君。お父さんは元気かな」と一発食らわす。この一発で、たいていの人は落城した
 しかし残念ながら、脳内には、顔と名前を同時に覚える神経細胞の塊りがない。じゃ、どうするか。方法は、顔を覚える神経細胞の塊りをフル活用することである。
顔の特徴に名前をくっつけて覚える。この時、名前と体の特徴を一緒にして、覚えることは不可である。体の特徴を覚える専用の神経細胞節がないからである。
つまり、「おデブの○○さん」より、「大鼻の△△さん」とほうが覚えやすい
まずは、顔と名前を忘れられないように、十分な魅力を身に付けよう。また、忘れないように、顔記憶専用の神経細胞の塊りをフル活用しようではないか。
posted by えいちゃん at 15:35| Comment(3) | TrackBack(0) | コラム